ゴー宣DOJO

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切通理作
2018.3.8 01:42

かつての敗北、いまの希望

「SAPIO」3・4月号の小林よしのりさん『大東亜論 アジア雄飛篇』
での中江兆民の話はインパクトがありました。
 そこで紹介された『三酔人経綸問答』の中には、国にこだわることには意味がなく、軍備の撤廃を唱え、
侵略されても抵抗せず受け入れればいいという「紳士君」と、

 戦争は避けられぬ現実で、勝つことを好み、負けることを嫌うのは本能だと、
徹底的な軍国主義で国家主義的な「豪傑君」が登場。

 両者を、極端な左と右として象徴させ、両方の極論を諫めて、
健全な保守思想を説く「南海先生」に兆民が自らをなぞらえていたとのこと。

 その各々の立ち位置は、そのまま現代にもあてあまることにビックリです!
力を無視した理想論と、力におもねった理想論は、
現実を見誤り、自主独立の道を見失う結果になってしまいます。
  その間のバランスを取らんとしていた兆民自身は、
貴族社会を前提とした「平民」という言葉を嫌い、
「新民」として自由で平等な社会の実現を目指していたというのです。
理想的な社会を作るには、
「平民」が「新民」の自覚を持たなければならないという兆民の現実感覚が
そこにあったのでしょうか。
選挙に出馬し代議士となった兆民は政権党に勝つため、
小党分立だった民権派各党の大合同を策するものの、
それは統一政党の体をなしていなかった……
というのも、現代で起こっていることそのままなのに驚かされます。
憲法改正が不可能になるや予算削減の項目ででも解釈改憲をしようとした兆民。
一矢でも放ち国民の見えるところで憲法を議論に載せようという尽力の前でも、
そんなことしないで予算削減さえ出来ればいいじゃないかという、
ことなかれ主義の「軟派」議員があらわれる。
あげくの果てには、政権党議員の緊急動議という「無理筋」を可決する……
つまりとことんまで国民を議論に参加させないということに、
植木枝盛のような、兆民とかつて志を同じくした者さえ、加勢してしまう。
 それは、一人では一派を率いることが出来ない者の寝返りであったと、
小林さんは書きます。
かくして解釈改憲も潰え、「政府のための憲法」が確定してしまいます。
 国民による議論を経ていない「押しつけ憲法」に反対し、
「恩賜の民権」(上から与えられた権利)よりも
「回復の民権」(下から回復する権利)に進化させようとした兆民ですが、
しかし「恩賜の民権」すらも夢まぼろしになってしまったと嘆くしかありません。
ここにおいて、小林さんが兆民の思想を紹介した意味がよりいっそう浮き彫りになります。
現代にあってもそうなってしまうのか? そうあっていいのか?
そんな問いかけが前面に出されるのです。
 個別自衛権を拡充し、自主防衛を目指す「立憲的改憲案」もまた、
主権の回復に根差さない米国依存の改憲に呑みこまれてしまうのか? 
 否、いまこそ「日本で初めての国民参加の憲法改正が行われる可能性」
にかつて賭けた男がいたことを思い出そう。
 その理想は潰えたけれど、いまふたたび問い直す機会がやってきたのだ・・・と。
  生前の堀辺正史師範は、ゴー宣道場の中で、しばし「わくわくするような議論」
をしたいとおっしゃられていました。
 政府の暴走を監視するという「守り」の姿勢の重要性を認識しつつ、
変革の息吹に賭ける。真に現実に根差した「理想」実現のための推進の場。
 そんなゴー宣道場の今後を私も注視してまいりたく思います。
切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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